いろいろ好きに語ります

ゲーム・任天堂系の話題を中心に語っていきます

「たまたま好きになっただけ」という考え方

 世の中には様々なコンテンツがあり、人並外れた愛や熱量をもってそのコンテンツにお金や時間を投資する人たちがたくさんいる。日頃からネットを見ていると、もはやそういう人間の存在しないコンテンツなんてないんじゃないかと思ってしまう。

 さて、ここではこういう人たちの活力の源である「好き」という感情について語っていきたいと思う。

 

好きになるまで

 まず私を例にすると、私は任天堂が大好きだ。任天堂が作るマリオやゼルダといったゲーム、そしてその中に出てくる世界観、ストーリー、キャラクター、音楽も好きだし、任天堂の会社としての信念、ゲームづくりへの姿勢も好きだ。

 自分でも不思議に思うがこれだけ任天堂に夢中になっているにも関わらず、好きになった経緯は実に単純だ。

自分の好きなものって何だろう?→子供の頃から無意識に任天堂のゲームばかり選んで遊んでいた→じゃあ任天堂好きだわ

 

 完全に偶然の産物である。

 最も詳しく辿ると、私の父が友人か誰かからスーパーファミコンを譲ってもらった時のソフトラインナップに原因があると思う。

 その時のラインナップというのが以下ようになっている。

 

 

 見事に任天堂ソフトオンリーである。

 子供の頃は気づかなかったが、ここまで極端に任天堂ソフトに偏ってるのを見ると、子供の時の影響は大きいものがあるのだなあ、と思ってしまう。ここからWiiの末期頃までは無意識に任天堂ソフトを優先的に親にねだっていたように思う。ここで好きになる下地が出来ていたようである。

 もうひとつのターニングポイントは家に無線LANが置かれ、3DSニンテンドーeショップニンテンドーダイレクトを初めて見た時だった。

 恥ずかしい話、有野課長にインタビューをする動画を見るまでは、目の前のぽっちゃり体型な眼鏡の男、岩田聡任天堂の社長だとは知らなかった。

 だが、目の前の人間が誰かは知らずとも、伝えてくれるまだ発売されていないゲームの情報は非常にワクワクしたし、ゲームを遊んでいる時と同じぐらいテンションが上がった。そしてそういう気持ちにさせてくれるのは任天堂のソフトだった。

 任天堂好きを自覚したのはちょうどこの辺りだ。

 他にも、過去に発売されたマリオやゼルダカービィのゲームを知ることで長い歴史の上にこのキャラクターのシリーズはあるんだなあ、と感じたことも大きい。そしてそのようなタイトルを多く抱えている任天堂という会社自体の歴史に興味をもち、個性豊かな任天堂社員たちの顔を知り……と私は任天堂を好きなって今日に至るわけである。

 

好きになっていた

 ここまで書き記してきて私が思うのは、好きというのは”なる”ものではなく”なっている”ものなのではないかということだ。

 言い換えるならば、何か理由があって好きになるのでなく、理由は後から伴うものではないか、ということだ。

 

 よくインターネット上で自分が好きなものについて理由を熱く語る人を見かける。そして頭の良い、客観的に自分の好きという感情を分析する人ほどその理由を一般論に持ち込もうとする。

 だが、私はこう言いたい。「じゃあ、あなたが挙げた好きな理由を満たすものが出てきたら、それも好きになれますか?」と。

 「もちろん」と自信満々に答える人もいるだろうが、私の予想ではそうではない人の方が圧倒的に多いと考える。

  私自身も客観的に、より一般論にして自分の好きという感情を分析しようとしたことがある。だが、先の問いを投げかけられてはっきりと頷ける自信は、正直ない。

 

 気持ち悪いと感じる人もいるだろうが、任天堂だから好きなのだ。任天堂と同じ構成要素を多く含んでいるものがあったとしても、それは私が好きな任天堂とはハッキリ別の存在である。好きになるとは限らない。

 何故そういうことが起きるのか、理由を求めることもできるだろう。だが、先に語った私の好きの経緯を辿ったところで、どこに原因があるかなんて調査分析していったらキリがない。

 もはやその人の人生を一から辿るレベル、もっと言うならばその人の生活環境、人格形成、親族や友人の影響まで調査しなければ答えは出ないと思う。

 子供の頃から触れてきたものを好きになりやすい等の傾向はあるだろうが、明確にこれとこれが理由で好きになったと断言するのは難しいだろう。

 「なんで好きか?」というのは愚問だと私は思う。

 

たまたま好きになっただけ

 ここまできて何がいいたいかと言うと「好きという感情に理論武装はいらない」ということだ。

 他人から「それは〇〇のパクリだ」等の自分の好きなもののアイデンティティを脅かすようなことを言われると、ついつい反論したくなる気持ちも分かる。だがそこで一旦落ち着いてほしい。

 好きという気持ちは必ずしも筋道立ったものではない。他のものでは気に入らない部分も、自分の好きなものだと許せるといった矛盾を孕んでいる可能性がある。そしてそれは決して悪いことではない。自分が心血を注いできたものを否定するのはメンタル的にも良くないし、そもそも好きに理由を求める必要性はないはずだ。

 もちろん自分の好きという気持ちを確固たるものにするべく、理由を探している人もいるだろう。そういう人を否定したりはしない。それも楽しみの一つだ。

 だがやるなら徹底的にやった方がいい。そして、悪い部分も含めて客観的な視点をもつべきだ。そうしないと世間との評価の間で苦悶することになる。良い所も悪い所も受け入れるか、悪い所には目を瞑るかは自由だが、後者は無自覚に高飛車になる恐れがあるのであまりお勧めはしない。

 

 あともう一つ言いたいのが「好きへの固執」という話だ。

 先も言ったように、自分が心血を注いできたものを否定するのはメンタル的に良くない。だが今は好きなものもいつかは飽きる可能性があることは理解した方が良い。

 世の中には面白いコンテンツて溢れているし、そもそも人は根本的に飽きっぽい。刺激に飢えているからだ。

 好きなもので刺激を満たせなくなったらいっそ、新しいものを探してみてはどうだろうか?それを自ら自覚しているにも関わらず「好きに固執する」姿は正直言ってみっともないし、自分自身が苦しいだけだ。

 人間の興味の対象はポンポン移り変わっていく。いつかはかつて好きだったものにまた夢中になれる時がくる可能性はあるし、こなかったらこなかったで思い出として語れば十分だろう。

 「たまたま好きになっただけ」という風に考えて肩肘を張らないことをお勧めする。そうすればまだ見ぬ魅力的なコンテンツに出会う確率も上がり、そうすれば楽しい時間は今よりもぐっと増えるだろう。